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発信日●1999/7/8  

95年イスタンブールに3カ月滞在したあたりから、旅する日本人はなんだかんだ言っても相当な金持ちであると実感し始めました。旅行サークルの会誌で、暴利をむさぼるインドのゾウ使いに怒り心頭!とかのボラれ話の投稿を読むたびに、なにかしら妙な違和感があったんですが、その輪郭が見えてきたという感じでした。
日本は本当に豊かなのだろうか、なんてくされコピーを吐く政治家や評論家がたまにいますが、豊かに決まってるじゃないですか!センセー! ほぼ3秒間に1人の割合で子どもが餓死していってるこの地球上で、こんなに資源を消費してる国のどこが豊かじゃないと? え、心が豊かじゃないって? 豊かな心は自分でつくるものです。政治家に法律をつくってもらわないと自分の心を豊かできない国民なんて、未来永劫絶対に心豊かになれないと思います。

ボルのは非常識なのかな?

さて、イスタンブールのグランドバザールでは、紹介者のあるなしで価格が違ってきました。旅行者なら、外見や交渉能力で価格が変わります。初めて訪れた89年当時は理不尽だと思いました。金持ちだろうと、貧乏人だろうと、定価通りに売れ!と。
しかし、自分を考えてみると、実は同じことをしているのです。原稿制作や編集などを仕事にする私には、おおまかな相場はありますが、定価というものがありません。クライアントの予算に合わせて、似たような仕事であっても請求額は上下します。友だちからの仕事は、格安もしくは現物支給でも受けます。
この面で言えば、トルコ商人と私の商習慣は結局同じ。ただ、それをどれくらいおおっぴらにするかの違いだけではないでしょうか? フリーランサーや小さな商店に限らず、大企業や公務員(!)も規模の違いはあっても根本では同じでしょう。
儲かって羽振りのいいクライアントには、もちろん高めの見積もりを出します。これは私だけじゃありません。独立している先輩や友人もみな同じです。そう考えると、現地ガイド付きインドパッケツアーに参加するような羽振りのいい観光客に対しては、私がゾウ使いならやっぱりお高めプライスを提示すると思います。ただし、日本人らしくこっそりと個別にね。

でもなぜ怒る人が多いか。それは自分がボラれるに値する金持ちだと自覚していないからだと思います。多くの日本人観光客のお金の使い方はたいそう派手です。日本ではつつましい生活であっても、それは国外の誰一人知り得ない隠れた顔であって、オモテの顔はがばがばモノを買う金持ちです。いわゆる「貧乏旅行者」だって、ボル人たちから見れば、海外旅行なんてものができてるんですから充分に金持ちです。
そんなかんなで、私は多少ボラれてもあんまり怒らなくなりました。そりゃもちろん、何十倍とかボラれたらいくらなんでも私だって怒りますよ。詐欺の領域だもの、それは。
結局は、このラインをどこに引くかなんでしょうね。

しかし、乞食には困る…

問題は物乞い、乞食の人々です。乞食にお金をあげるのは、今だにどうしていいのか悩みます。特に、お金を無心する子どもには動揺します(大げさでなく)。インドのカルカッタ<ph1>で小さな女の子二人が「ワン・ルピー」と繰り返しながらずーっとついてきた時は、小銭はあるからあげて去ってもらおう、いや、ここで教育を誤ってはきっと彼女らの将来のためにならん、いやいや、これは日本のドメスティックな論理にすぎん…などと相克し、こんなことに悩まされる現実に腹が立ちました。結局、その場にいた地元の男が追い払っちゃいましたが、あの子たちの親は何をしているんだろう…。

余談ですが、その男は博物館の入館料やチキンビリヤーニ、ジュースなどをおごってくれたものの、ホテルの部屋に彼を入れる気が私にまったくないことがわかると、「明日返すから、ジーンズ(1点限りだから内金をしておきたいそうな)を買うためにお金を貸してほしい」と言い出しました。その金額は、彼が私に使った金額とトントン。笑かしてもらいました。
案の定翌日すっぽかされ、お金は返ってきませんでしたが、一緒に散歩した時間はとても楽しかったので、これはこれでいいやと思いました。案内するよと親切そうに声をかけてきた地元の人に、別れ際お金を求められて憤慨したという話もよく聞きますが、一緒に過ごした時間に満足度が高かったなら、払ってもいいのではないでしょうか? それは申し訳ないけれど、私の場合、乞食に対する施しと同じ感覚でした。初めからいくらいくらだと言ってくれれば、商行為なんですけれどもね。だから、“払うべきだ”なんて言いません。ただ、案内という実労働をしてくれている分だけ、なんとなく納得してお金を渡せるなぁと、私は感じています。
しかし、尋ねた道を教えてくれたとか、マナーの領域だと思っていたことにまでお金を要求されるとたじろぎます。これはもう文化の違いなので、慣れるしかないんでしょうね。逆に、トルコでは、あまりの親切さになんとか感謝の気持ちを表しくて、謝礼を差し出したら相手が怒ってしまったこともあります。いろいろな文化があって、おもしろいですよね、人間って。これだから旅はやめられないっ。

持てるものの自覚と覚悟?

乞食といえば、インドのバンガロールで出会ったアキラさんを思い出します。中級クラスのホテルに2ヶ月近く滞在していた彼は、ホテルスタッフや近所の人たちとはもう顔見知りです。もちろん乞食とも。毎日道で会うというなじみの乞食に、その日も彼はお金を与えていました。小銭を恵んでもらったそのおばあさんは彼に手を合わせてはいました。が、私には「いただきものが多すぎたので、今日もご近所さんにおすそわけ」程度のやりとりに見えました。ううむ…。しかも、なじみの乞食は彼女一人ではありません。これを毎日2カ月かぁ、なかなかの出費かも…。反面、彼のような立場の日本人旅行者がインドに滞在したときの、あるべき姿を見たような気もしました。界隈に見慣れない日本人を見つけると、ホテルのスタッフや近所の人が彼に報告しに来ます。その日のニュースは人の口から彼の耳に入ります。なんとなく、街になじむとはこういうことなのかなと思えてきました。
彼はこの後インドの大学に留学しました。

イスタンブールに住むトルコ人の友人には、ホテルで働く姪っ子がいます。彼女は、カーペットや革ジャンなど高い買い物をたくさんするのに、ロカンタなどでは少しボラれただけで激怒する日本人ら外国人観光客を軽蔑しています。喜捨を大事な行のひとつとするムスリムだから、なおさらなんでしょう。その一方で、かつてのイスタンブールで隣人だった大学生のように、「街にいる乞食は乞食会社の社員。会社のトラックで運ばれて来て、所定の位置で乞食の仕事を始める」なんて言って、乞食への施しは一切しないという人もいます。彼の父はハッジなんだけどな。

私が小学生の頃、市内のお祭りには必ず足や手のない傷痍軍人さん(だと思う)が出店に並んで地面に座っていました。軍服を着て、8トラックから軍歌を流していたこの男の人らに、祖母は涙目になりながら小銭を渡していました。私は祖母が募金をしたと感じました。数ヶ月前、私は内乱の続くシェラレオーネの人権活動家のためにわずかながら寄付をしましたが、それと同じ感覚です。
でも、97年のマカオでは、タクシー乗り場で車のドアを開けることで、乗客から小銭をもらっていた白人男性には、彼の片手が不自由なのにもかかわらず、どうしてもお金をあげることができませんでした。お金が惜しいとか、彼が汚らしいとか、そういうことではありません。たぶん私は自分を納得させる明確な理由がほしかったのです。「戦争で足を失った不憫な人だから」とか「武力組織に家を焼かれ、暴行を受け、救援を必要としているから」とか。そういうやむにやまれぬ理由があるから、私はお金持ちじゃないけど寄付するのだ、弱者同士が助け合うのだ、と。それが、“豊かさ”を心底自覚できる機会のほとんどない日本国内で培った私の倫理観でした。だから、充分な理由もなくお金を恵むという、自分を金持ち(=余ったお金のある特別な階級の人)と認めるその行為には、いい知れぬ尊大さを感じ、自己嫌悪さえわいてくるのです。

乞食が施しを求めて差し出した手は、私の脆弱な倫理観をわしづかみにして、わさわさと揺さぶります。金持ちのくせに知らんぷりかい? おまえは豊かなんだろ、じゃあ覚悟しな、と。

 

●ご意見●
Akioさん〜「わたしが乞食にお金をあげはじめた理由

 

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